やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

カール・シュミット『現代帝国主義論』(4) ライン地域の国際法的諸問題(1928)

1928年、ドイツ歴史学会における講演。ナチ党が選挙で12席を得た年だ。シュミット、39歳。第一期はワイマール憲法起草者フーゴー・プロイスの後任としてベルリン商科大学の教授に就任する年の思想、歴史観。

 

ベルサイユ条約はドイツに課した賠償金の大きさなど聞いてたが、土地問題の方が深刻だったのかもしれない。それがこの「ライン地域の国際法的諸問題」に詳細に書いてある。

以下、前章と同じく気になった箇所を書き出しておく。

 

25 ザール地域、被占領地域(ライン地域)、非武装地域、ヴェルサイユ条約213条による調査地域 の4つの頭を持った怪獣を視野から失ってはいけない、と。

 

26 ザール施政委員会は外国が国家高権を行使し、極めて疑わしい連盟の統制の下で統治権をも行使する。ライン地域は部分的に占領され、非常時にはドイツは領土高権を完全に失う。平時も拡張可能な権限を有し、支配している。

 

27 ザール地域は1935年に国民投票でドイツ復帰か、フランスに帰属するか、現状を継続するか決めることになっているが シュミットは3つの理由を挙げて、その結果がドイツに不利になる可能性を示している。

 

28 ここに国際法の限界、のような事が書かれていて大変興味深い。ヴェルサイユ条約428条以下の条文の全てが疑問の対象に。法規の言葉が政治的敵対の場に持ち込まれるやその内容は変化する。軍縮、侵略戦争、安全保障、少数民族など概念がそれである。法規が法規のままでは不安定で、非政治的国際法の主張が公然な高度に政治的詐欺、であることを認識してきた。(この最後の文章は、日本も共感、するのではないか)

 

28 全ドイツの非武装化を統制する調査権は連盟理事会の多数決で決まる。(シュミットは書いていないが加盟国でなかった米国の影響は大きいのであろう)

 

31 非武装化の解釈の問題が書かれている。ここは日本への軍事施設建設という猜疑を思い出させる。ヴェルサイユ条約42、43条によればドイツは築城の保有、構設、武装兵力の永久、一時的駐屯、集合、演習、などを禁止。特に「動員のためにする施設」はあらゆる道路工事、駅、スポーツクラブ、ガスマスクによる住民保護などもその解釈に含まれる可能性がある。この非武装化は、従来の歴史上にはない概念。そしてシュミットの次の指摘は日本の憲法改正の話にも通じるであろう。それはこの非武装化は一地域の中立化ではなく、あらゆる防御可能性を排除した、宿命的な戦場を作り出すこと、である。

 

32 ここも日本に当てはまるようで興味深い。武装解除されたものが武装解除によって侵略者であるとされ、ドイツは無防備であることから世界平和の撹乱者であるとされる。これは狼と子羊の寓話である。1925年10月16日のロカルノ条約は非武装の規定を確認し、被侵犯国(仏白)の対独行動を援助する義務を負う。これはフランスの侵略行為(1920年5月のフランクフルト占領、1921年ライン諸都市占領、1923年ルール地域占領)を保護する。(第一次世界大戦は1919年に終わったのではなかったのか?)

 

38 ヴェルサイユ以降、仏英の特殊利権にドイツは奪還され続けたのだ。無難な名をつけて、法的形式を装って政治活動を行う各種の委員会は 盲信癖のある「感傷的合法性信者」のドイツ人には危険である、とシュミットは警告している。

無防備の非統制国、賠償義務国ドイツと、最大限の武装と統制力、そして賠償請求権をもつ敵国との法的平等はコウノトリとカエルの平等でしかない。(ここら辺の記述も日本の現状が当てはまるような気がする)

 

40 現代では公然たる領土併合ではなく統制と従属国を強要して干渉条約を締結させる。これは契約の神聖性やpacta sunt servandaを援用し従属国(ドイツの)主張を道徳的に封じるという利点がある。干渉国は被統制国の存立根本に関する公序公安を掌握する。これは米国がラテンアメリカ諸国に対して、英国がエジプトに対してとっている方法。

 

41−43 ライン地域の問題はドイツ存続の問題であり、ドイツは人口6千万の大国ではなくても小国ではない。最悪の問題に目を閉じるのは犯罪行為である。無責任な自己欺瞞ある。そしてシュミットは17−18世紀の国際法学者し示した「自然状態」がまだ存在していると書く。それは狼と子羊の寓話、コウノトリとカエルの寓話の政治論・国際法論から明らかである。第一義的な権利(防衛のことと思う)を一瞬でも忘却した国民は無慈悲な没落の運命にある。その権利とは自由、独立という分けることのできない実存の権利である。(ってこの最後の部分は今に日本に言われているようだ。)