やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

知本温泉的南島考

知本温泉的南島考

<台湾主催の島サミット延期>

 今月10月、ソロモン諸島で開催予定の台湾主催、第3回太平洋諸島サミットが延期されることになった。昨年も、当選したばかりの馬新政権が準備に間に合わない、という理由で延期している。今回は台風災害への対応を優先したい、という理由だ。

 台湾主催の島サミットは陳政権 が’06年に開始。仏、中、日、米が3年に一度の開催としているのに対し、台湾は毎年の開催を約束。台湾の島嶼国分捕り合戦の意気込みを感じさせた。’06年はパラオ、’07年はマーシャル諸島で開催された。

 台湾外務省の話しでは、現在’10年3月に開催する方向で調整中。前政権で約束した各年の開催も3年おきに、と見直しているそうだ。

 馬政権下で続いた延期は中国への配慮ではないか?との憶測も流れている。確かに今回の延期は台風の理由だけではない。今年8月オーストラリアのケアンズで開催されたPIF総会で非公式な中・台の対太平洋島嶼国支援に関しする話し合いがもたれた。今後援助合戦は止めましょう、現在の支持国を拡大する動きは両者とも控えましょう、との合意がされたそうである。

 小国を巡る敵対する大国があればこそ「弱者の恐喝」で最大の利益を導くことが可能だ。ここしばらく太平洋島嶼国は中・台関係を静観する必要がある。現在、台湾・中国を支持する太平洋島嶼国は各6カ国と同数になっている。

(台湾:パラオマーシャル諸島ソロモン諸島ナウルキリバス、ツバル)

(中国:ミクロネシア連邦、トンガ、サモア、フィジー、バヌアツ、パプアニューギニア

<太平洋島嶼の人々のルーツ、台湾原住民>

 サミット延期のニュースに接した時、たまたま台湾の台東にいた。台東にある「国立台湾史前文化博物館」でオーストロネシア語族の最先端の研究を聞く機会を得たからである。台湾外務省の太平洋島嶼担当官も来ており、早速上記の情報を入手した。同担当官は約6年の太平洋島嶼国での勤務を終えて帰国したばかり。

 なぜ台湾で太平洋研究なのか?東西はマダガスカルからイースター島まで、南北はハワイからニュージーランドまでという広大な地域に拡散しているオーストロネシア語族のルーツは台湾原住民、という説が有力だからだ。約5千年前、農耕の発達が原因で人口が増加し台湾からの拡散が始まった、と考えられている。

<原住民問題と台湾の内政外交>

 全く不勉強であったが、今回訪ねた台東から南が、8月の台風で大きな災害を受けた地域であった。美人湯として有名な川沿いにある知本温泉もホテルや道路が土石流で削られていた。不謹慎とも思ったが、被災地にお金を落とす事も重要(!)考え、温泉に浸かりながら、台湾と太平洋島嶼国について考えた。

 「国立台湾史前文化博物館」がなぜ台東にあるのか?オーストロネシア語族の原住民が多く住んでいるのが台東だからである。5千年以上、原住民は台湾に広く居住していたが、約400年前に中国大陸から移住した漢人によって南東の山間部に追いやられた。馬政権への台風災害対応批判は実は原住民対策批判なのだ。それではなぜ、台湾人口の2%、約50万人の少数民族となった原住民が台湾政治に影響を与えるのだろうか?

 台湾政府が原住民支援に乗り出したのは約20年前。台湾の民主化運動が盛んになる中で、少数民族が立ち上がり、米国や国連に働きかけたという。’01年に開館した「国立台湾史前文化博物館」の現館長Masegseg Gadu氏はパイワン族出身。言語学者で、神父でもある館長は活動家の一人だった。

 原住民の存在が台湾政治で注目されたのが’95年の立法委員選挙。原住民の6票がキャスティングボードとなった。翌年’96年には行政院原住民族委員会が設置され、原住民支援が強化される。

 さらに、原住民が台湾外交政策上も注目されるようになった。台湾原住民こそオーストロネシア語族のルーツとの説が有力になったためだ。これは独立を目指す前政権にとって格好な学説であった。即ち民族的に台湾は中国大陸とは異なっており、太平洋島嶼国やアジアとつながっている。台湾こそが太平洋島嶼の仲間である、という外交政策に繋がった。

民族学と政治>

 今回の会議に招いてくれた中央研究院のTsang Cheng-hwa博士は、オーストロネシア語族の遺跡が中国大陸南部で発見されたことを発表。即ち台湾原住民は中国大陸から渡ってきた可能性がある、少なくとも台湾との交流があった、という内容だ。馬政権だからこそ発表できた内容かもしれない。

 学者は学問が政治に利用されることを当然躊躇する。しかし、政治の関心がなければ台東に博物館もできなかったし、台湾のオーストロネシア研究が大きく進むこともなかった。

 民族学と政治は凌ぎ合ってきた。遠くは、フランスの航海者ブーゲンビルの航海日記で「高貴な野蛮人」として描写されたタヒチ人からルソーは「自然人」を発想、市民革命へつながる。タヒチに個人の自由などなく、タブーだらけの社会であることを10日間の滞在ではブーゲンビルも見抜けなかったようだ。近くは、進化論や優性遺伝説がナチのホロコーストに利用された。アメリカの文化人類学の父フランス・ボアズは文化相対主義を主張しこの進化論を否定した。ボアズの弟子の一人がサモア研究で有名なマーガレット・ミードだ。

 台湾原住民の民族学研究の開祖は日本人だ。東京大学総長矢内原忠雄始め、鳥居龍三、国分直一、金関丈夫等々日本の第一線の学者達であった。当然ながら日本の植民地政策が背景にあった。そして1895年から始まった台湾における南島研究が1920年から始まったミクロネシア統治へ繋がる。 現在の日本のオーストロネシア研究はどうなっているのだろうか?今年4月に大阪、国立民族学博物館の館長になられた須藤健一教授は島嶼基金と20年のおつきあいがある。年内にもお話を伺いに行く予定だ。

 台湾原住民の植民活動は5千年続き現在広大な領土と領海を確保している。それに比べヨーロッパ人の植民活動は約500年。日本はたった50年で退散した。奥深い山に囲まれた知本温泉の日が翳り冷たい風が首に吹いた。

(2009年10月21日 早川理恵子)