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音楽高校、音楽大学出身の自分にとってドイツは遠い存在どころか、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューマン、シューベルト、と身近どころか頭に心にそして指に染み付いている。第一外国語はドイツ語だったくらい。 挨拶くらいはできる。歌も歌える。でもドイツ文献は読めない。。
しかし、ドイツの歴史を全く知らなかった。ドイツが統一されたのが1871年。これを成し遂げたのが「鉄血宰相ビスマルク」である。 ドイツとオーストリアの関係がよくわからなっかたが、大ドイツ、小ドイツ論争でやっと見えてきた。この問題、ご当地でも未だに議論されている。2006年にモーツァルトはドイツ人か、という論争がオーストリアとドイツで繰り広げられているというから根は深い。
さて、1848年の革命以降、ヨーロッパの体制が大きく揺るぎ始めた。この革命と第一次世界大戦を機に米国に移民したドイツ人は600万人を超える、という。米国最大の移民はドイツ人。ここが大事。
「鉄血宰相ビスマルク」と言われるのとは裏腹に、彼の植民政策は慎重であった様子を高岡博士は同書で敷衍している。これを端折ってまとめる。
1つにはドイツが統一された時には既に英国、フランス、オランダが主要な海外領土に植民していたこと。
2つに3つの戦争を経て統一されたばかりのドイツは疲弊しており、海外植民をする程の国力はなかった。
3つにヨーロッパ中央に位置するドイツは近隣諸国の勢力均衡を保持するのが精一杯。海外領土なんて、とてもとても。
4つにドイツの海軍力はまだ弱かった。海軍なくして海外領土の管理なんて、とてもとても。
最後に18世紀から10世紀にかけてヨーロッパの政治界及び経済界を風靡した「自由主義」はドイツをも支配していた。自由主義は海外における領土拡張を反対していたのである。 逆に強硬な植民地政策を推し進めたのはビスマルクを退かせ、第一次世界大戦を招いたヴィルヘルム2世であった。
それにしても日本に天皇制が残って、未だに機能しているはまさに奇跡である。 次回は、慎重派のビスマルクがその態度を変える事となった3つの事件1874年のフィジー問題、1880年のサモア問題、そして1881-1884年に発生した郵船航路補助問題を端折ってみたい。