やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(5)マーシャル群島 その1

(この「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋」は高岡熊雄著『ドイツ南洋統治史論』を参考にまとめています。)

 

 ドイツ帝国の南洋統治。ビスマルク群島、カイゼル・ヴィルヘルムスランドのあるノイ・ギニア、即ちニューギニアを外す訳にもいかないし、高岡博士も一章を割いている。が、先に進むためにあえてノイ・ギニアは割愛して、現在私が進めているミクロネシア地域を優先し、マーシャル諸島を取り上げたい。

 

 高岡博士はドイツ帝国の南洋及び極東方面への進出を次の4段階に整理している。

 

 第一歩 1884年のノイ・ギニア、ビスマルク群島等の占領。(マーシャル諸島も入る)

 第二歩 1897年の膠州湾の租借。

 第三歩 1899年スペインからのカロリネン及びマリアネン群島の購入。

 第四歩 1900年北米合衆国との協議を経たサモア群島内のサファイ及びウポルの獲得。

 

 

 マーシャル群島が西洋人に「発見」されたのは他の南洋群島と同じ16世紀であった。しかし、この群島が広く知られるようになったのは1788年にイギリスの東印度会社の船が調査をして以降の事である。この時の船の船長マーシャルから群島の名前が命名された。その前後もイギリスの船が現在のマーシャル群島の島々を次次に「発見」し、イギリスは早くから自国の勢力圏にあり、と主張していた。

 

 ドイツ人がマーシャル群島に往来したのは1810年。経済的に価値に着目したのが1860年頃で、ホノルルにあったドイツ商館がヤルートに支店を設け、Adolf Capelleを派遣した。Capelle氏はその後独立し、ポルトガル人Jose de Brumeと協同経営を試み、リキエップ島を所有。同島ではCapelle、deBrumeの混血民族が平和裡に発展した、という。

 Capelle、deBrumeとも、マーシャル諸島でよく見る名字である。こんな歴史的背景があったとは始めて知った。カペレル一家の写真集

 

 1873年にはゴーデフロイ商会が、1876年にはヘルンスハイム商会がヤルート島を中心にマーシャル諸島での事業に着手した。

 これらのドイツ商会は協議の上、マーシャル諸島をドイツの保護領とするようドイツ政府に建議した。この建議に応え1878年軍艦をヤルート島に派遣し同島の酋長と協議の上、友好協約を締結。この協約によりドイツ帝国は貯炭所を設置する権利を得た。

 

 マーシャル諸島に少なからず経済的関係のあった英国とは、当然の事ながら同島の所属問題については長い事係争問題となっていた。1885年にようやく一つの協約が成立。この協約によって、マーシャル諸島とナウルはドイツ。ギルバート群島が英国に属する事を明らかにした。

 さらにドイツ政府はこの機を逃さず、ヤルート島に集合していたマーシャル諸島の全酋長と迅速、簡潔、且つ円満裡に保護協約を締結する事に成功。ドイツ国旗を各島に掲揚し、弁務官を置いた。これによって、ドイツ帝国は内南洋に根拠地を獲得し将来の発展に備えることができた。

 

 

 ここで同書の執筆当時85歳であったはずの高岡熊雄博士の人間性に触れる記述があるので紹介したい。ここを読んで、私は一機に高岡ファンになった。

 ヴェルサイユ講和会議では赤道以北にあるドイツ領を日本の委任統治地とする事で合意。ナウルは赤道からたった0度32分南方に在るため獲得できなかったのである。しかし、我国は第一次世界大戦でイギリスの援助をする条件としていくらでも交渉できたはずだ!1885年のドイツとイギリスの交渉に比べ、我国の行動はなんとも情けない!と、博士は地団駄を踏んで、歯ぎしりをして悔しがっている一文がある。

 確かに、燐鉱石(鳥のウンチ)が豊富なナウルの戦後の発展は目を見張る。世界中にビルを所有。鹿児島ーナウル間の直行便もあった、と聞く。

 しかし不動産投資、財テクは失敗。鳥のウンチも彫り尽くしたが、今度はロシアマフィアと手を組んでマネロンで一儲け。さらに最近はロシア政府とも関係が深い。主権国家としてのサバイバル振りは目を見張る。

 ところで、この本の発行は1954年。戦後間もなく執筆を開始されたのではないだろうか。その精神は引き継がせていただきたい。博士自身は1946年公職追放処分を受けている。

 

 

 さて、ドイツ帝国のマーシャル諸島統治、話が長いので2つに分けます。次回、ドイツ・ヤルート会社の興隆。米国との経済的関係も垣間見れます。