やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

『東南アジアの解放と日本の遺産』- 鈴木大佐

アジアの独立を導いた日本軍。

アジアの人々を酷使し死に追いやった日本軍。

 

この天使と悪魔のような対照的な記述の違いがどこから来るのか、理解できなかった。

レブラ博士著の『東南アジアの解放と日本の遺産』はこの当方のここ数年の疑問を一気に紐解いてくれた。

アジア独立を導いた日本軍と、死に追いやった日本軍は、まず人物が違う。

そして時代が違うのだ。

西洋の植民活動を批判した日本が、西洋のそれと同様な行いをしたのは敗戦が決定的になったきた1944-45年の事である。

同時に、東南アジア諸国の独立を支援し、独立承認を誓った日本が、それを承認しない立場を明確にした。

皮肉な事に日本軍に育てられた優秀なアジア諸国の軍隊は、日本に反乱したのである。

 

<奇人でロマンチストの鈴木大佐>

『東南アジアの解放と日本の遺産』の75-76にビルマの独立運動を支援した鈴木大佐のキャラクターが書かれている。

 

「なぜ軍は鈴木にこういった特殊任務を与えたのだろう。彼は独自の思考と行動をもった人物であった。彼の経歴は、参謀本部のエリートの一人として彼を位置づけている。彼は、予測不可能な状況下において、自分自らの主導力の下に行動する事が要求される情報任務には、理想的に適していたのかもしれなかった。」(同書75頁)

 

「鈴木の横柄な奇人的性格は、彼が官僚的な軍指揮系統に彼自身を合わせるのを非常に困難にしていた。しかし、同時に、彼の奇人ぶりとロマンチズムは、情報任務にはまことにうってつけだったのだ。」(同書76頁)

 

<東南アジア政策不在の日本>

それではなぜこのような個人の活動が可能であったのか?

レブラ博士は、当時日本は陸軍を中心とした中国に対する政策しかなく、ビルマ、インド、インドネシア等は中国への補給線を断つための政策しかなかった、という。

そのために、鈴木大佐や陸軍中野学校卒業生約千人が東南アジア各地に、外交官、新聞記者、商社員として開戦数ヶ月前に送られた、という。

東京の対東南アジア政策不在が、鈴木大佐らにフリーハンドを持たせたのである。しかし、それは敗戦が決定的になる中で東京からの命令に適正を失わせ、悲劇を招く結果ともなった。

 

<悲劇は成功に>

レブラ博士は、この日本の軍人が育てたアジアの義勇軍について詳しく追っており、軍事教育を受けた彼らが、戦後政治指導者となってアジアの独立を導いて行った事も書いている。

またレブラ博士は、日本の敗戦後、日本軍が東南アジアの各地に残り独立戦争に協力している事も書いている。

 

「ジャワ、スマトラだけで350から400名の日本兵がその地にとどまって、独立戦争に加わったとされている。これはいわば、個々の日本人による直接的な貢献である。」(同書241頁)

 

さらにレブラ博士は日本の軍事教練の基本的な2つの前提を上げている。

 

「その一つは、技術的な武器の長短よりも精神のほうが重要であるということ、二つ目は、自己規律は絶対であって、他のどんな価値にも優先するということであった。」(同書241頁)

 

日本の軍人が、鈴木大佐が育てた東南アジアの軍は、戦後は政治力にもなって、日本が当初予想もしていなかった方向へと、即ち精神的強さをもった政治力として拡大していったのである。さらに生き残った両者は、戦後も相互に支援を継続していた。

 

<アラビアのロレンスにあこがれて>

このレブラ教授の研究は1965年頃から70年代にかけて、まだ存命中の多くの関係者のインタビューも含めた資料を基礎に書かれている。

インド、ビルマ、ジャワの独立支援をする、藤原、鈴木、柳川は、自分たちの使命を伝説的なアラビアのロレンスの使命との類似に深く感じるとことがあった、という。(同書25頁)

映画「アラビアのロレンス」の結末は悲劇である。ロレンスは喜劇の主人公のようになってしまう。

それはロレンスは考古学者であって、軍事的規律にもあまり関係がなかったせいかもしれない。(追記:これは考古学者に偏見を持つ当方の誤認かもしれない.ロレンス中尉は情報員としての訓練を受けているとのコメントが友人からあった)

さらに、日本と違って、英国はアラブに対して明確な政策を持っていたからかもしれない。

皮肉な事に日本政治の東南アジアへの無策が、個々の日本軍人の理想を達する機会と、東南アジア諸国のリーダーを生む結果となったのではなかろうか?