やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

「英霊に詫びる」大佛次郎 昭和20年8月21日

心の余裕が出来たら書こうと思っていた。

でも心の余裕はあれから半年経つのにやって来ないし、これからも無いような気がする。

2015年12月、当方の恩師でもある渡辺昭夫東京大学青山学院大学名誉教授の講演会を聴く機会があった。

タイトルは「敗戦後70年にして思うことー勝者の戦後と敗者の戦後」

この講演は国際安全保障学会年次大会の特別講演として企画されたもので、私は渡辺先生から直接ご案内をいただいて、大久保の早稲田大学で開催された海洋政策学会の発表を終えた足で、三田の慶應義塾大学に急いだ。

渡辺昭夫先生の講演の中で戦後0年に触れ、大佛次郎が昭和20年8月21日に朝日新聞に掲載した「英霊に詫びる」を紹介、朗読されたのである。

渡辺先生は朗読されながら、泣かれたのではないかと思う。声が震えていて良く聞き取れなかった。私は学会会員でもないので、後の方の席を取ったため良くわからない。講演後この原稿を探した。

「英霊に詫びる」は大佛次郎エッセイコレクション「人間と文明を勘上げる 水の音」小学館、1996年に納まっていた。下記引用する。

「御大詔を拝承した八月十五日の夜は、灯を消して床に就いてからも睡れなかった。闇に目をあいていて夢のようなことを繰り返して考えた。

 その闇には、私の身のまわりからも征いて護国の神となった数人の人たちの面影が拭い去りようもなく次から次へと泛かんで来た。(中略)

 いつの日にかまた会う。人なつこげな笑顔が、今も目に見える。毒舌を闘わせながらも目もとは優しかった人々。(中略)

 切ない日が来た。また、これが今日に明日を重ねて次から次と訪れて来ようとしている。生き残る私どもの胸を太く貫いている苦悩は、君たちを無駄に死なせたかという一事に尽きる。(中略)

 古い外国の画報で、私は一枚の写真を見たことがある。世界大戦の休戦記念日に、戦死者の木の十字架が無限の畑のように立っている戦跡に立ち、休戦が成立した深夜の時間に、昔の戦友のラッパ手がラッパを吹奏して、死者に撃ち方止めを告げている写真であった。地下に横たわってからも敵に向かって銃をつかんで眠らずにいる戦友に、莞爾として銃をおろさせ安らかな眠りにつかせる為であった。(中略)

 畏くも御大詔は、その道を明らかに示し賜うた。私どもの前途の闇に、荒涼としたものながら、一条の白い路が走り、地平に曙の光さえ見える。傷ついた日本を焼土から立ち上がらせ、新生の清々しいものとして復活させる。過去の垢をふるい落として、新しい日本を築き上げる。その暁こそ私どもは君たちの御霊に、鎮魂曲を捧げ得るのではないか?君たちの潔い死によって、皇国は残った。これを屈辱を超えて再建した時、君たちは始めて笑って目をつぶってくれるのへないか。(中略)

 歴史は未曾有の大断層に逢着し、聖断が下された。目をつぶって、我々は昨日から飛躍する。君たちが遺して逝った神州不滅の愛国の信念を、日本の再建に連結する。(中略)待っていて欲しい。目前のことは影として、明日を生きよう。(中略)この大道を行く限り、死も我々の間を引裂きえない。私はそう思い、そう念じる。」

できれば後で全文引用したい。

渡辺先生のご尊父は渡辺正夫中将(陸軍士官学校21期・陸軍大学校31期卒)。多くの若者を戦争に送る立場の人でもあった。

以下ウィキからだが、渡辺正夫中将は牛島満の前任者として太平洋戦争末期の1944年3月、沖縄の第32軍初代司令官として沖縄の航空基地設営を行った。同年8月、心労のため、また過度に沖縄県民の不安を煽ったことで(本当の事を言ったのだ)、参謀本部付となり、10月に予備役編入

渡辺先生の博士論文は沖縄問題である。

渡辺正夫中将に大佛次郎氏に伝えたい。米国は今太平洋を守る為に日本を必要としています。

私はミクロネシア海上保安事業を、また太平洋島嶼国の業務を、渡辺昭夫先生が1994年に書かれた戦後初の日本の安全保障政策「樋口レポート」の流れを引き継ぐもの、と位置づけています。