『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』(江崎道朗著、PHP, 2017)に大正の自由教育の事が出てくる。 今の自分を形成している重要な要素がこの大正自由教育である。反応せずにはいられない。 私の祖母は、自由教育の第一人者、手塚岸衛先生から千葉大付属小で自由教育を受けたのである。1919年だ。 以前関連資料をウェッブサーフィンした記憶があるがあまり見つからなかった。昨晩検索したら、結構出ていた。下記のペーパーを見つけ、ざっと読んだ。
田中智代子、「手塚岸衛における「自由」―― 自学と自治の実践をてがかりに ――」東京大学大学院教育学研究科 基礎教育学研究室 研究室紀要 第39号 2013年9月 http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/55555/1/3915.pdf
自由教育というとルソーかな、と想像し、また一時「赤」になったという祖母の話から「自由教育」にあまり良い印象を持っていなかった。しかし、田中智代子氏の論文に下記の通り、手塚がルソーを否定している事を知って、少し安心した。
「手塚における「自由」は、ルソーの自然主義的な自由の概念に対して否定的な立場をとるものであるだけでなく、先行研究において指摘されてきた篠原助市を通して摂取されたドイツ観念論的な自由の概念にも収まらないものであると思われる。」(上記論文145ページ)
「ドイツ観念論的な自由の概念」とは何なのだろう? 祖母は手塚の自由教育の中でずっとピアノを弾いていたのだそうである。これが私が音楽学校に行くこととなった背景だ。別にピアニストになりたいとかではなく、(学校の)勉強をしたくなかったし、しなくていいと言われて育ったのである。 12月に日本ニュージーランド学会から声をかけていただき、ニュージーランドの教育について講演をする予定。母親の視点からという事だが、3つ持ってる修士の一つ目は教育学である。少し、学術的にも論じてみたい。