阿川尚之先生の授業を聴講していなければマルクスを読む機会はなかったであろう。
『共産主義者宣言』 平凡社の文庫は千円もするが薄くてあっという間に読める。そしてこの突っ込みどころ満載のつまらない文章が何千万人もの人々の命を奪ってきた事を思うと心が重くなる。。。
早く読めばよかったと後悔した箇所がある。
青空文庫にあったのでそこからコピペする。
堺利彦訳 幸徳秋水訳 共産黨宣言 カール・マルクス フリードリヒ・エンゲルス
「ブルジョアジーは、世界市場の搾取によつて、各國各地の生産および消費にコスモポリタン的性質を附與した。産業の足のしたから國家的地盤を引き拔いて、保守主義者の大なる悲嘆を招いた。古來の國家的産業は既に破壞され、なほ日々破壞されつつある。そしてそれに代る新産業を輸入することは、すべての文明國にとつて生死の問題であり、またその新産業は、もはや内國の原料でなく、最も遠隔した諸地方からの原料に加工し、またその生産物は内國ばかりでなく、世界のあらゆる方面で消費される。昔の、内國産によつて充足された需要の代りに、今は最遠隔の國土の産物でなければ充足されない、新しい需要が生じてゐる。昔の、地方的國家的の自足と閉居との代りに、今は諸國民相互の間における、各方面の交通、各方面の依頼が生じてゐる。そして精神的生産もやはりこの物資生産と同じである。個々の國民の精神的作物は、世界共通の所有となる。國民的の偏執と僻見とは、次第々々に不可能となる。そして多數の國民的、地方的の文學の間から、一個の世界的文學が起る。」
開発学の議論はまさにマルクスが先取りしていた、とどこかで読んだが多分この箇所であろう。マルクスは戦後議論されている途上国支援は言及していないが、「世界市場の搾取」「最遠隔の國土の産物でなければ充足されない、新しい需要が生じてゐる。」「多數の國民的、地方的の文學の間から、一個の世界的文學が起る」などを現代社会に読み解いて行けば開発理論に繋がるように思う。
それから自決権にも繋がるような下記の部分。
「かくていよいよ、古いブルジョア社會(およびその諸階級と階級對立と)の代りに、各人の自由な發達が衆人の自由な發達の條件となるやうな、協力社會が生ずるのである。」
個人の自由が社会の全体の自由にどう繋がるのか?自決権を訴えながら全体主義になっていくソ連や中国が重なる。マルクス・エンゲルスの「自由」はバーリンあたりが批判しているのではないか?
そして最後に結婚観である。ここはレーニンの夫婦関係を例にした自決権の議論に繋がるのかもしれない。
「しかしなんにしろ、わがブルジョア諸君が、そのいはゆる共産主義者の婦人共有制に對して、道徳的義憤を發したことほど笑ふべきものはない。共産主義者は婦人共有制を創設する必要がない。それは疾くの昔から存在してゐるではないか。
わがブルジョア諸君は、公娼のことはしばらくいはぬとしても、プロレタリヤの妻や娘を勝手にして、それでもなほ滿足が出來ないで、更に自分らの妻を互ひに誘惑することを無上の快樂としてゐるではないか。
ブルジョアの結婚は、その實質上、まさに妻女共有制である。さすれば、彼らが共産主義者に對して加へうる攻撃は、僞善的に隱蔽されてゐる婦人共有制の代りに、公然たる正式の婦人共有制を設けようとするからいけない、といふのがせいぜいである。なほいふまでもないことだが、現今の生産關係を廢絶すれば、それとともに、その關係から生じた婦人共有制、すなはち公私の賣淫制度が、みな消滅するのである。」
妻を共有していいのだ。妻が子供生産機械でないのであれば。すなわち一個人として自決、確立していれば!エンゲルスは女工でアイリッシュのバーンズ姉妹を共有したのだ。子供も作らなかった。マルクスの非嫡子を養子にもらっている。
この共産主義宣言が書かれたのが1848年。マルクスが読んだと言うローレンツ・フォン・シュタイン著『平等原理と社会主義』は1842年に出版されている。ここに共産主義が妖怪である、ことが書かれている。
「この両者(フーリエ主義とサン=シモン主義)と並んで、共産主義という不気味で恐るべき幽霊が現れて来る。共産主義の実現など誰も信じようとはしないが、しかし誰もがその存在を認めて恐れている。これらの現象はすべて正気でない頭脳の偶然的な産物にすぎず、自分たちの前に立ちはだかっている課題の大きさが、そのために発揮しなければならない小さな能力を狂わせてしまったのだ、などと主張できるであろうか。否、これらの現象は自らに生命を付与する要素を内包している。こうした現象を産み出した結果の背後に、しかも社会主義と共産主義を呼び起こした欲求そのものの背後に、この現象を現代フランスの最もな内的な核心と結びつける接点が隠されている。」
最後に、1880年代ドイツに留学した新渡戸はマルクスなど学者の読むものでない事を教えられる。シュタイン始めドイツ学問に精通していた日本人のまともな学者はシュタインをシュモラーを学んでいたのである。
<ドイツの経済学者グスタフ・フォン・シュモラーのマルクス評>
「しかしマルクスならば一度は読んでご覧なさい、文章もなかなかいいところがある。歴史を述べるところ等は面白く読めます。さうして論鋒も頗る鋭いですけれども、あの人の歴史の読み方が、大分間違っているように思う。逆境にをつて書いただけあつて、正義とか公平とかいふ方面には大分欠けてをるように見受ける。
また哲学的のところもヘーゲルを焼き直したやうな所が多いが、確かに新味はないでもない。先ず中等教育を受けた者は彼を面白く読むでせうが、しかしわれわれ学徒の眼から見ると、ただ際どい、かつ巧であるといふだけで、読めば慰み半分に読むくらいのもので、真面目になって彼の説を読むような気はしません。」