やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

パプアニューギニアの独立を日本が柴田中尉が支援した話ーその3

1944年に日本軍の柴田中尉がウェワックに上陸し8歳のソマレ少年に独立心を教え、

その背景には、三輪公忠氏の解説によれば、旧独領であった北部パプアニューギニアとブーゲンヴィルを日本が確保する事で、日独関係を強化し、近衞第二次内閣の大東亜共栄圏構想を達成しようとした歴史的背景があった、事をブログに書いた。

しかし、日本軍が、柴田中尉が上陸する50年前から日本人はパプアニューギニアに入り、開拓の主導者であったのだ。

その名を小嶺磯吉、という。

実は水木しげる氏のマンガを読んで思い出したのである。

 

小嶺磯吉とは何者か?

以下、慶應義塾大学の資料から。

1866年肥前島原に生まれ、1890年オーストラリアの木曜島で真珠貝採取、1895年にはニューギニアに渡りプランテーションを探した、という。

オーストラリアで砂糖黍プランテーションを試みるが白豪主義が強化される豪州で市民権を得る事ができず、ニューギニアに渡り、1902−1912年ドイツのヘルンシェイム商会と共にアドミラル諸島(パプアニューギニアの北部)を開発。200人近い日本人が移民する事となる。

1914年に勃発した第一次世界大戦では、豪州軍をドイツから守り、豪州から表彰されている。が、1934年死亡。死亡原因は豪州による毒殺との見解もある。1933年、カナダで新渡戸が客死した事を思い出せば、当時の米豪あたりの反日の様子が想像できる。

1919年にはラバウル一の金持ち、と言われるほど商売は成功したようである。

よって、パプアニューギニア情勢は柴田中尉が上陸する50年前から日本はよく知っていたはずである。特に小嶺が活躍したのが原住民との紛争調停のようだ。原住民を懐柔する、すなわち彼等の文化を理解し、心をつかむ術を持っていたのであろう。

 

この小嶺コレクションは慶應義塾大学にある。

http://125.flet.keio.ac.jp/pdf/related_event_01.pdf

 

明治維新の直前に生を受け、日本開国の波、しかも太平洋の大波に揉まれた日本人。小嶺磯吉。

豪州に渡り人種差別に会い、パプアニューギニアでドイツと組みアドミラル諸島を開発、そしてWWIではオーストラリア軍をドイツ軍から守り、ラバウル一の金持ちとなり、WWIIの向けてオーストラリア人に毒殺された(仮説)日本人。

私もオーストラリア人に毒をもられないように気をつけよう。豪州海軍とビリオネラーを既にやっつけましたので、命を狙われている可能性はあります!

 

彼に関する資料は英和共に結構あります。

ニューギニアでドイツ軍艦を奪った小嶺磯吉

http://homepage2.nifty.com/tankenka/sub1-7.html

 

小嶺磯吉(こみねいそきち) : ラバウル開拓の先覚者 (一八六六年-一九三四年)

平間洋一

太平洋学会学会誌 (74/75), 86-87, 1997-06

 

(オーストラリア国立大学での博士論文だと思います。まだ読んでいませんが一番信頼できる資料なのでは?)

Japanese Southward Expansion in the South Seas and its Relations with Japanese Settlers in Papua and New Guinea, 1919-1940

Hiromitsu IWAMOTO

http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/55/1/iwa.pdf