やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

後藤新平とパリ講和会議

ウィルソンの平和の14か条をドラフトしたウォルター・リップマンを読んでから、1919年に後藤新平が新渡戸を連れてパリ平和会議に参加した事が書かれている『決定版 正伝 後藤新平 7』が読みたくて、年末図書館で借た。
 

後藤は6千億円の芝居見物(第一次世界大戦と平和会議のこと)を見に行くと公言し、1919年三月に日本を発ち、米ー英ー仏ー英ー米 と船で9ヶ月の旅に出る。新渡戸とその生徒を伴って。この旅は後藤の私的訪問であったため後藤は一研究者として家を抵当に入れて借金をして行っている。(借金はできないけど見習おう)

 

リップマンには会っていないようだが、リップマンが活躍した「ニュー・リパブリック」の夜宴に招かれ、そこで後藤はチャールズ・ビアードと出会う。後藤とビアードを結びつけたのは、結果的にリップマンだったのかもしれない。そして「ニュー・リパブリック」の出資者が、後藤が満鉄総裁時の米国在奉天総領事未亡人で、親中反日であることも書かれている。(80ページ)

後藤は至るところで中国に対する日本の対応を批判される。その中でも後藤が必ず会いたいと思っていたエジゾンからも科学の話ではなく中国の話で批判された箇所は気の毒に感じた。(57−59ページ)と同時に米国の排日運動を中国がわざわざワシントンにプロパガンダ通信社を置いて展開していたことなどは、今と何も変わらないのではないか、と思わざるを得ない。(40−41ページ)

米国には親日も多くいて、ウィルソン大統領の娘と結婚したマッカドウは、カリフォルニアの政治家が国内ポリティクスに排日運動を利用しているだけだから日米関係は問題ない、というようなことも言われている。(70−71ページ)

平和条約のドイツへの過酷な条件に後藤は病床のロンドンで、これでは恒久的平和は成立しない、と強い言葉を口授している。(91−93ページ)カール・シュミットを読んでも、またリップマンですら戦勝国がドイツに課した条件が過酷すぎ、ヒトラーとナチスを産むすべての禍根であった事が理解できる。ヒトラーとナチスを肯定しないが産んだのは横井小楠んも指摘した欧州の非人情なのでは?

そして講和会議を主導したウィルソンの、リップマンの理想主義を空論にした筆頭は議長でもあったフランスのクレマンソー首相だったという。(106−108ページ)この結果が米国を、リップマンを怒らせ、米国の国際連盟加盟を止めさせたのである。

フランス滞在中の後藤をパリに亡命していたロシアのココツフォフが訪ねて来る。ここら辺のことを全く知らない私でも目が釘付けになった箇所がある。ロシア革命で武官が4万数千に殺された。殺したのはムルマンスク鉄道のために雇われた6万の支那人の中の4万人。支那人の残酷な性格を利用し一人50ルーブルで殺した。他にレットン人種という無学な漁夫をレーニンの近衛兵とした。

政権20人中8人がユダヤ人。レーニンはロシア人、トロツキーはユダヤ人。(118−119ページ)

さらにココツフォフは、米国は14か条を持って天下を治めようとしたのであるから民族自決のドグマからメンシェビキを助けざるを得ないのではないか?そして米国のダイヤ人と選挙関係からメンシェビキに断固とした処置が取れないのではないか、と後藤に語っている。ロシア革命の事は一切知らないが、ココツフォフが指摘する米国の態度はユダヤ人のリップマンがウィルソンに与えた影響と関係しているではないか?(121ページ)

やはり新渡戸を国際連盟事務次長に推薦したのは後藤であった。しかし自ら主唱者になるよりも牧野と外務省を推薦人とした。手が込んでいる、というか政治家だからね。後藤あっての新渡戸、なんだよね。(132-133ページ)

ウィルソンの懐刀であったハウス大佐との面談も面白い。後藤は支那財政立て直しとして阿片政策を縷述した。台湾で成功した制度である。登録制にして管理するのである。(137−138ページ)

英国の元外相で、在米大使として米国向かう予定のエドワード・グレーとの会談を興味深い。後藤は米国が日英同盟を好ましく思っていない事をあげ、グレーに説得を依頼した。しかしグレーはそんな事は初耳だと。鶴見は知らないはずがないと訝しく思っている。(142−143ページ)日英同盟の解消は英国も望んでいたのではないか?英米の秘密の取引があったのでは??

後藤はフーバーとの会談で、大調査会、世界を学び研究し、人材を育てるアイデアを得た。しかし後藤の案を日本政府は認めなかった。他方フーバーはハーディング内閣の商務長官として米国産業発達のための参謀本部を設立したのである。ここでも日米の差が生まれた、のかもしれない。(162ページ)

一番印象的だったのはココツフォフのコメントだ。平和の14か条はレーニンの、ロシア革命の影響を受けており、民族自決権は最たるものであろう。そのため米国はドグマに囚われてロシア革命を、当時のレーニンの体制を支持せざるを得なかった。

ところで民族自決のドグマに囚われたのは27歳のユダヤドイツ移民のリップマンだったのではないか?ここでレーニンとウィルソンが「自決権」というドグマで繋がるのではないか。